MR社の開発の歴史

複雑な機械の組立

ラインハウゼン地区は、レーゲンスブルグ市のレーゲン川とドナウ川が交わる地域に位置しています。交通の便に優れた立地から、17世紀の半ばには木材加工業が行われるようになり、19世紀には蒸気を動力源とした製材所の修理に特化した工場もできるようになりました。

1868年、そのような工場の一つが、製材装置のメーカーへと発展します。その製材装置は垂直の刃を複数持つもので、材木を一度に異なるサイズの板に加工することができるものでした。

1891年1月24日、この会社はCarl Dännerとその妻Katharinaのものとなり、Carl Dänner Maschinenfabrikと名前を変えます。その後、会社は夫妻の長女Thereseとその夫Andreas Scheubeckに引き継がれ、Andreasの技能と献身により、大きく発展していきます。1901年4月23日、会社はMaschinenfabrik Reinhausen Andreas Scheubeckと名前を変え、商業登記されました。

19世紀から20世紀に変わるこの時期には、たくさんの製材装置のメーカーが存在していました。会社の競争力を高めるため、Maschinenfabrik Reinhausen社は既にこの時期に、今日でもそのまま有効である、以下の3つの戦略要素を会社の方針として掲げていました。

  • 価格ではなく、品質やサービスによる差別化
  • アフターサービスの提供を合わせた製材装置の販売
  • 輸出による製造数量の拡大

1914年から18年の間、第一次世界大戦によって、製材装置の製造の商業的発展は、突然に妨げられました。そして、戦争が終わっても、製材装置の製造がその重要性を取り戻すことはなく、次第に衰退していきました。

MR Andreas Scheubeck製の製材装置

1920年代の大不況の最中、会社を維持していくために、Scheubeck家にとっては並々ならぬ個人的な努力と意欲が必要でした。会社は修理の仕事を行い、単品の製造の仕事も受けながら、時折、継続した仕事も受注するという状態でした。1929年までの間に製作に取り組んだものには、自転車の部品、鉄道車両や船の窓枠、取り付け金具、そして、飛行機の機体もありました。しかしながら、これらのうちのいずれも、安定した社内での製造につながるものはありませんでした。これらの取り組み全ての原動力Andreas Scheubeckの息子のOskarとRichardでした。

A. Scheubeckの息子のOskarとRichard