画期的な特許が認められた頃、Jansen博士は発明の試作品の製作にも取り組んでいました。Oberpfalzwerke社(現在のOBAG 社)の技術責任者として、1928年末からレーゲンスブルクに住んでいた彼は、入札により地元の会社にも発注を行っていました。1929年、穴のない歯車が必要となりましたが、必要な水準の品質を満たすものを調達することはできませんでした。その時に、ふさわしいサプライヤーとして推薦されたのが、Maschinenfabrik Reinhausen Andreas Scheubeck社でした。経営者の息子であるOskar Scheubeckが注文を受け、その日のうちに要求された設計仕様に完全に沿ったものを届けました。
Jansen博士は、そのような素早い対応に感銘を受け、次の日に個人的に会社を訪れ、さらなる仕事を約束します。ドイツでの景気が良くなかったことや製材装置の生産が段々となくなっていたこと、また継続して製作する製品がない状態が続いていたことから、OskarとRichardのScheubeck兄弟はこの新しい取引関係に高い期待を抱きました。結果として、彼らは全ての力と持てるものをOLTCに注いでいきます。
その後の数年間、タップ選択開閉器C100形の試作機の製作が行われ、その後、Jansen博士のライセンス先である変圧器メーカーに届けられました。Jansen博士は彼の本職に多くの時間を割かなくてはならなかったため、試作機の製造の監督業務を彼の同僚であったAnton Schundaに移していきました。Antonは1938年、新たに開発されたD形タップ切換器の図面を、Jansen博士の知らぬ間にMaschinenfabrik Reinhausenに渡し、Scheubeck兄弟はこのタップ切換器の最初の試作機を彼らの費用で作ったのでした。この試作機は非常に大きな印象を与え、Jansen博士は1939年から小規模ながらC形の連続生産を、1941年からはD形の単品生産を依頼したのでした。顧客はさまざまな地域の電力会社で、彼らはこれらのOLTCを彼らの選んだ変圧器メーカーに与えたのでした。Andreas Scheubeckは1942年に亡くなり、会社はOskarとRichardに引き継がれ、会社の名前はMaschinenfabrik Reinhausen Gebrüder Scheubeck oHGとなります。第二次世界大戦の間を通して、会社の経済的な状態は緊迫した状態が続きました。しかしながら、終戦直後の1、2年の間は、そのよく知られた機械装置の修理や製作能力に高い需要が集まり、様々な機械装置や工場の修理を行いました。また、OLTCの製作は必要な材料が入手できる範囲で行われました。
ドイツの大半の変圧器メーカーは、使用するOLTCを自社で作っていましたが、その工場は戦争で殆ど破壊されてしまいました。変圧器の製造を再開した時、製造に使える手段は限られており、OLTCの機械部品の製造と、変圧器の製造は親和性が低いことが認識されました。そして、必要なOLTCの製造を集約するという考え方に至るのは当然の流れでした。それに応ずるように、Jansen博士はドイツの変圧器メーカーに与えていたライセンスを、Maschinenfabrik Reinhausenが引き継ぐ提案を行い、また、ドイツ国外の変圧器メーカーにまで納入することができるオプションも付与したのでした。
Scheubeck兄弟は、このただ一つの、一生に一度の機会に気づきました。その後にすぐに起こることになるドイツの経済発展の奇跡のためには、電源供給ネットワークの再生と継続した拡大は必須のものでした。そして、OLTCに対する莫大な需要も期待されました。それと同時に、実際の製造を開始するには殆ど乗り越えることができないような問題があることも明らかでした。しかしながら、彼らのOLTCへの無条件の信念が、全てを投げ打ち、その申し出を受ける後押しをしたのでした。
戦後、生産は順調に拡大を続け、人員も製造工場も拡張をしてゆきます。そして、1951年12月28日、Jansen博士とMaschinenfabrik Reinhausenとの間で、書面でのライセンス契約が結ばれました。契約は1968年12月31日まで続くもので、MR社は相当のライセンス費を払い、予見される需要を満たすための製造能力を整えることと引き換えに、ドイツ国内外を問わず、どこの顧客に対しても出荷することが認められました。また、Jansen博士はMR社に対して、彼自身でOLTCを製作することをやめること、また今後は製造ライセンスを新たには与えないことを約束しました。Jansen博士のそれまでのライセンス先は変圧器メーカーであったため、MR社は最初で唯一の変圧器製造からは独立したライセンス先となったのでした。
製造能力の拡大のため、MR社は同じくReinhausenの中に新しい工場を作ることを決定します。銀行からの圧力もあり資本の増強が必要でしたが、このような中で、真っ先にMR社が相談したのは長年のビジネスパートナーでありライセンス元であったJansen博士でした。博士は自身の娘のMagdalenaを共同出資者として推薦し、1954年1月1日、会社はMaschinenfabrik Reinhausen Gebrüder Scheubeck KGとなりました。
戦後の緊急な復興需要が終わると、会社の成長率は平常化してゆきました。1957年度は工場の移転に伴って製造が中断したこともあり、初めて年間の売上高が低下しました。この時、会社を救ったのは急速に伸びていた輸出取引で、この時期で既に全体の売上の50%以上を占めていました。
1958年10月15日、Jansen博士が不慮の自動車事故で59歳の若さで亡くなりました。博士は、OLTCや電圧調整変圧器に関する幅広い問題や改善、さらなる開発についての合計49のドイツ特許を取得しました。そしてその多くはドイツ国外でも出願されました。ドイツの最後の特許は1966年7月7日に発行された特許番号1207490の特許でした。